先日から、六本木の画廊で絵を描かせていただいている。
画廊の床や壁を埋め尽くすほどの大きな絵。紙も描く場所も私の都合に合わせて手配して下さった。
GWと週末を利用して全体の半分ほどが書き上がった時、画廊主である海上雅臣氏が山中の邸宅より下界?に降りてこられ、私の絵を見てくれた。
「ちょうどこっちに来る用があったから」
そう電話をいただき、都合をつけて会いに行く。
先日、途中経過を友人の書家の方が見に来てくれ、筆も問題なく使えているし、クオリティーも高い、もともとのコンセプトもしっかりしているし、これなら海上さんも喜ばれるだろう、そう言ってくれていた。
初めてこれだけ巨大な絵を描いているが、自分でも見るのが楽しいような出来で、海上さんには早く見てもらいたかった。
海上氏は私に会うなり言った。
「見て大変驚いたよ。まったくパターンになってしまっている。なんだか分からないが、小さい絵を描いている時のようなものが何もなくなって、つまらなくなってしまっている」
海上氏が言うに、私の絵は「増殖」なのだという。もっとカオスでなければ。これでは看板描き屋に描かせた方がまだいい。
「増殖」という言葉は私の絵に対する最も適した言葉だと私自身も思っている。
絵を描く時、私は線から入る。
するとその線から派生するように、線が線を呼ぶ。
構図からは入らない。
海上氏は、これをやるくらいならやらないほうがいい、と言われ、もし書き直すならまた紙を発注してくれるという。(ちなみに、使用している和紙はA3サイズほどで1万円くらいするんじゃないかという噂が立っている。真実のほどは知らないままでおきたい)
これは普段描いている小さいサイズの絵。
これはB4サイズの紙に描いている。
今回、大きな絵を描くにあたって、人の視線を考えた。
サロンに入ってきた人の視界のちょうどいい位置に顔のような形がくるように、要は絵の主人公にあたる部分が視界に入りやすい配置に置かれるように。
それを取り巻くようなテーマ。私はこの展示を「内側から知る自己」と位置づけていたので、そのような意図を元に、見に来てくれた人たちの様子を思い描いていた。
普段、絵を描くときにはやらないような思考だ。
私はユングの集合的無意識の考え方が非常に好きで、自分の無意識の底を手繰り、底の底までたどり着ければ、人類全体の集合的無意識に働きかけられるものが描けるのではないかと思っている。
同時に、意識の上で、人に喜んでもらうようなものを作りたいという想いがあった。
意識的にやるのであれば、より意識的であるべきで、無意識の底に向かうのであれば、真摯にそこに向かって潜行すべきだったのかもしれない。
とりあえず、紙の発注はなしに、独立した床のパーツから再び描き込み始める。
小さい絵を描く時のように増殖的に。細胞の群れのように繁殖的に。
描き直し2日目の今日は、サロンのある建物が整備のために停電中となっていた。
隣の部屋の窓からの光を頼りに、薄暗い中で紙を広げ、しばらくそこに横になる。
それから起き上がって描く。
思考なしに描くから前より早い。乾きを待つための時間さえなければ、1日で床面も終わるだろう。
良い絵がなんだかは私にはよく分からない。
それを決めるのは批評家や画廊の仕事なのだろう。
同時に作家を導くのもまた。
書家の友人はこの事態に驚いて連絡をくれた。そして人を集めて励ましの会をやってくれるという。自分のことのように憤っていて、たくさんの言葉をかけてくれたのだが、私自身はなんだかここのところ凪の海のような心境で、「そうか、なら描き直そう」と思ったくらいだった。
昨日はプロカメラマン兼ミュージシャンの鶴田照夫さんが遊びに来てくれ、絵を描く私の写真を軽く撮影してくれた。鶴田さんは、シュワちゃんや武田鉄矢さんなどの俳優さんの撮影も手がけるベテランのカメラマンさん。プロの方に絵と一緒に撮ってもらえたのは、本当に嬉しかった。
昨年の個展の時も友達が遊びに来て写真を撮ってくれた。
各々の視線から見る絵はまったく違う絵のようで、人それぞれが住む世界の美しさを垣間見せてくれた。紹介で載せてくれたブログは、嬉しくて何度も読みに行った。
そういうのがもっと広がっていってくれたら嬉しい。
徹底的に意識的になるのは、私の性格ではたぶん難しい。
だから、徹底的に無意識的になってみたい。
より感覚的に、自由意志など最初からなかったみたいに。
そんな風に描き詰めてみたい。